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2024/04/20 17:21 |
治療歴14~手術
案の定、手術までの2週間は毎日朝から夕方までカルシウムの点滴治療でした。日本からすでに両親が来ていたのに、この貴重な時間をほとんど一緒に過ごすことができませんでした。

悪夢の手術前夜

そして手術の前日。この日は朝から、Ambulatory Surgery(外来手術センター)で、肝動脈の塞栓術を行いました。手術時の大量出血のリスクを減らすためだそうです。そしてそのまま入院、ICUに送られました。この日はもうJJと両親には会えませんでした。その夜の塞栓患部の痛みは、耐え難いものがありました。塞栓術ってこんなに痛いんでしょうか。それとも今までの痛み止めの乱用がたたって、鎮静剤の点滴が効かないのでしょうか。看護士さんに何度も量をあげて貰うのですが、痛みは治まりません。この夜ばかりは、あまりの痛さに一晩中あえぎ苦しみました。

手術当日

地獄の一夜が明け、手術当日の朝、病室に麻酔科医がやって来て、いろいろ麻酔の手順surgery.jpgについて説明しますが、朦朧として頭に入りません。それにしても手術前にJJたちと会えるのだろうか...。そしてとうとう時間になって、オペチームの人たちが迎えに来ました。そして私の乗ったベッドが病室を出ようとしたとき、JJと両親があわてた様子でやって来ました。渋滞で車が遅れたらしく、JJは私を見るなり「もう間に合わないかと思った」といって泣きだしました。まるでもう2度と会えないかのように...。思わずムッとしてまう私。私が死ぬとでも思ってんの? 冗談じゃない。と思ったけど、そこはやさしく「大丈夫。私は大丈夫だから...。」ちょっとこれって立場が逆じゃない? 私たちの様子を見て「心配しないで。私たちに任せてください」と言ってくれたのは、そばに居たいつかのあの若い助手の外科医でした。

手術室まで行くと、入り口のところに、たまごっち先生が立っていました。青い手術着姿がいつもよりさらに頼もしく見えます。もう不安は全くありませんでした。そして手術台に乗せられます。みんなで手順のことで何か話し合っているようです。そして「もういい。さっさと眠らせてしまおう」というたまごっち先生の声を聞いたのが最後でした。次に目が覚めたときは、すで何時間も経った後だったのですが、私にはほんの数十分間うたた寝をしていたように思えました。

何とか胃だけは残してくれた!

ガヤガヤと周りが騒々しい中、少しずつ意識が戻ってきました。私は仰向けに寝ていて、周りにたくさん人がいるようです。最初は状況が把握できずに「いまから手術が始まるのかな」なんて考えていました。一人が「これ見て、すごい汗!」といいながら私の体を拭いているようです。だんだん意識がはっきりしてくると、もう手術は終わってるんだと分かりました。私は鼻、口、そして体中いろんな管につながれて、ICUの中にいました。

しばらくまた眠ったようで、夜になっているようでした。JJと両親が部屋に入ってきました。JJが「手術はうまくいったよ。原発は全部取ったって言ってた。それと、胃は大丈夫だったよ。腫瘍がくっついてなかったって。切りとらずに済んだよ」と教えてくれました。父親は「よく頑張った。もうサンフランシスコはお前のもんだ!」と言ってくれました。
(治療歴15へつづく)
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2007/08/14 18:19 | Comments(0) | TrackBack() | 過去の記録3~手術編
治療歴13~カルシウムが止まらない
手術のために、両親が日本から来ることになりました。今年70歳になる両親には、先月手術になることが分かるまで、この病気のことを全く話せずにいました。ただでさえ、今まで散々好き勝手なことをして心配ばかりかけていたのに、今度は「がんになっちゃった」なんて、とても正気じゃ言えなかったのです。でもこんな大手術を受けることになれば、もう黙っている訳にはいきません。この頃、私は手術に対する恐怖心より、こんな事になってしまった罪悪感と申し訳ない気持ちで一杯でした。親より先に死ぬなんて、そんなこと絶対にできない。「私は絶対に死なないぞ」と心に強く誓っていました。

手術は8月14日に決まりました。まだ数週間あります。やはり、この時の難題は血中カルシウムをコントロールすることでした。ゾメダが使えなくなり、私のカルシウムレベルはまた急上昇していました。毎日のようにクリニックへ通い、多量の点滴で洗い流しますが、もう追いつきません。とうとう危険値の12を越してしまい、またもや入院して治療することになりました。

手術前に少しでも体調を整えておきたかったのに、こう24時間点滴台に縛られていてはかないません。おまけに多量の利尿剤のせいで、夜中も30分おきにトイレへ。ほとんど眠ることもできません。体がだるいし食欲もない。数日後、やっとカルシウムが平常に戻りましたが、手術までまだ2週間あります。それまでまたもつか分かりません。でも病院にいるのはもう限界です。「毎日でも、何時間でも治療に通うから、とにかく出してくれえ」と言って、強引に退院させてもらいました。


さよならウォルシュコーチ

nfl_w_bwalshobit_412.jpgちょうど退院の準備をしていた時、病室のテレビで、元サンフランシスコ49ERSのヘッドコーチ、ビル・ウォルシュさんが、3年間にわたる闘病の末、白血病で亡くなったと知りました。アメフトファンの方ならよくご存知だと思いますが、80年代の49ERSの黄金期を築き上げた“張本人”です。こちら地元ファンにとっては、亡くなる前からすでに「伝説の人」でした。

彼もこの病院の患者さんでした。2ヶ月ほどまえに、がんセンターで見かけたばっかりでした。その時は娘さんのような人と一緒で、2階の治療室に私たちと同じエレベーターでに上がって行きました。テレピで見るよりは、すでにかなりやつれていて、気分も悪そうでした。JJも私もなぜか緊張して、声をかけることができませんでした。あのとき「Hello」くらい言えてたならなあ...。ご冥福をお祈りします。
(治療歴14へつづく)

2007/07/24 14:11 | Comments(0) | TrackBack() | 過去の記録3~手術編
治療歴12~再会、たまごっち先生
実際のところ、ホークアイはできる限り手術になることを避けようとしていました。下手をすると命を落としかねない手術です。そしてたとえうまくいったとしても、そのあと順調に回復するという保証もありません。そんな危険を冒してまで、はたしてやる価値があるのかは、かなり際どい判断だったようです。もっとも私の知る限りでは、この価値をほぼ確信していたのは、後にも先にもたまごっち先生だけでした。

4ヶ月ぶりのたまごっち先生のクリニック。今日はフェロードクターと一緒でした。30代半ばぐらいの男性で、おとなしそうな感じです。外科医のようですが、私の手術に立ち会う訳ではなさそうです。たまごっち先生は、私の一番最近のCTを見てきたらしく「以前よりマシになりましたねぇ。」そして「これなら死ぬ確率は5%くらいですね。20人に1人です。」本人は喜ばせたつもりのようです。そして「以前も話したとおり、これは腫瘍のDebulking Surgery (減量手術)です。すい臓の原発腫瘍をできれば全部取り除きます。少し残るかもしれません。そして肝臓もできるだけ切って転移の量を減らします。周辺の臓器もかなり切り取るので、この承諾書にサインしてください。」リストには摘出予定の臓器や部位がズラリ...「すい臓尾部、脾臓、左腎臓、左部結腸、胆嚢、肝臓の数区部...」なんかこれ前回の話より増えてませんか? 「あっ、そうそう、あと胃も全部摘出...」と言って書き足します。「胃も全部取るんですか!?」「CTで見る限り、胃も全部腫瘍に覆われてます。20%くらいなら残せるかもしれませんけど。」

たまごっち先生がちょっと席をはずした時、フェローの先生が気の毒そうな顔をして「(たまごっち先生は)全国でもこの手の手術は一番経験があるし、成功率も高いから...。」成功率が「高い」? 絶対成功してもらわないと困るぅっ!

2人が出て行った後、また30代半ばくらいの別の若い医師が早足に入ってきました。自己紹介もせずに「ちょっといいですか」といって、私の腹部を触ってチェックします。「貧血はありますか」「体重はどのくらい減りましたか」などと次々に質問してきます。そしてしばらく難しい顔をして何か考えています。そして「肝臓以外には転移はないんですね?」と念を押すような口調。「はい、来週もう一度Octreoscanをしますけど。」「わかりました。とても重要なことですからね。転移がないことは」さらに念を押して出て行きます。あとで分かったのですが、この医師が手術でたまごっち先生の助手をつとめる外科医だったのです。気になって、私の様子を自分の目で確かめに来たというような感じでした。

(治療歴13へつづく)

2007/07/06 18:09 | Comments(0) | TrackBack() | 過去の記録3~手術編

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