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2024/04/25 07:38 |
治療歴2~担当医との確執
K病院での抗がん剤治療が始まったものの、私の健康状態は急降下していました。入院中に一度下がったカルシウムもすぐにまた上がり始め、毎週のように長時間点滴で洗い流し、その場しのぎをしていました。夜汗もひどくなり、夜中に目を覚ますと全身びしょ濡れで、何度も震えながら着替えをしたのを覚えてます。全身の痛みを止めるため、モルヒネの経口薬を使い、そのため下剤も乱用していました。食欲はなく、体重も減少する一方で、すでに担当医は「抗がん剤の効果もあまり期待しないほうがいい」とかなりネガティブ。私は初めて「死」を間近に意識するようになりました。

とはいっても、ガンのことなど何も分からない私。今の担当医を頼って、彼の指示通りに治療を続けるしかありません。ひとつの理由として保険のことがありました。当時、私の入っていた保険はHMOと言って、特別な例外がない限り、K病院グループの医療施設でしか使えないものでした。K病院グループといえば、カリフォルニアでは最大級ですが、膵内分泌腫瘍のスペシャリストは一人もいません。でもそれは無理もないことです。アメリカ全国を探してもこの稀な病気の「専門家」は数えるほどしかいません。そのほとんどは大きな研究施設のある大学付属病院などに属しています。そしてそんな保険の利かない所で治療を受けるなど、桁違いに医療費の高いアメリカでは、私のような「庶民」には無理です。私はすでに、どうせ治療法なんて限られているだろうし、どの医者に掛かっても同じだ、と心の中で割り切っていました。

しかしJJは違ってました。JJは私の担当医がこの病気に対する知識も治療経験も最低限しかないことに、かなり不満を持っていました。とくに気に入らなかったのは、私たちがせっかく高い「相談料」を払って持って来た専門家のアドバイスに担当医が耳も傾けなかったことでした。彼に言わせれば、専門家なんて、自己の付加価値を上げるために、自分で勝手にそう名乗っているだけだと言うのです。確かに一理はあるかもしれません。でも彼より治療経験があることは確かです。これを機にJJの担当医に対する反発はさらに露骨になって行きました。今の治療をただ頑なに信じたかった私は、JJの態度を恨めしく思いました。

でも今考えると、その時半ば諦めていたのは私の方だったと思います。JJには何が何でも私にはできる限り、最良の治療を受けさせたいという信念がありました。彼のこの強い思いがなければ、私はあの当時の危機を抜け出せなかったと思います。

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2007/02/01 14:33 | Comments(0) | TrackBack() | 過去の記録2~治療編

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